お宝探求 <7>-6 歴史的な背景からの考察


    軍人皇帝時代のガリエヌス帝(253-268)は
    帝国内の任意の場所に騎兵隊を派遣させ従来より短期間に対応できる軍事改革を行ったとされています。
    騎兵隊の司令官まで昇進を続け
    その後皇帝まで登りつめ武帝として活躍した
    クラウディウス帝(268-270),アウレリアヌス帝(270-275)は、
    歴史の産物により騎兵隊長時代に皇帝の暗殺を企てた一員ではなかったのかとささやかれています。
    プロブス帝(276-282)も含め内乱や異民族の侵入に対し国境周辺地域であろうとなかろうと距離がいかに離れていようと軍隊を率いて転戦して回ったとも言われていることから
    軍事改革の影響がどのようなものであったのか推察するに厳しいものがあります。
    重要なことはどのような軍事拠点からどのように派遣したのかということを示してくれるような証拠があれば騎兵隊の行動パターンを推察することが可能となり
    さらにその真実味を増してくれるに相違ありません。
    プロブス帝時代までのコイン調査では少なくとも軍事的建築物の痕跡をコインに求めることができません。

    ディオクレティアヌス帝はどのような形で派遣させたのかを創造できるようなものをコイン裏面デザインにしっかりと残しています。
    軍事改革を従来より進化させたのはディオクレティアヌス帝と言われてきた由縁なのでしょう。
    293年3月1日テトラルキア体制を開始し
    従来の政治・行政・軍事に関するシステムを大きく変更します。
    現在の説としてはガリエヌス帝が開始したとされる軍事改革を継承したということになっています。
    ディオクレティアヌス帝,ガレリウス帝,マクシミアヌス帝,コンスタンティス帝がそれぞれの担当領域の中心都市に新たな都を再構築し政治・行政・防衛体制を見直しました。

    ディオクレティアヌス帝の担当エリアにおいて中心拠点となったニコメディアは
    東方正帝ディオクレティアヌスの都で現在のトルコ国イズミットにあたります。
    担当領域はオリエンス道(praefectura praetorio Orientis, オリエンス行政区)
    バルカンやペルシアに対する防衛拠点として位置づけられています。
    今回のCampgateコイン調査で一番ふさわしい場所がニコメディアなのです。
    テトラルキア開始の翌年295年に2種類の建築物コインを発行しているということは重要な意味を提示していると考えざるを得ません。
    2種類とは大規模砦と小規模砦ではないかと考えています。
    他の造幣所ではほぼ同時期に2タイプを発行しているところは
    アンティオキア,アレクサンドリアです。現在のところその根拠について確かなものは有していませんが意図的に発行されたものではないかと考えています。
    大規模砦は軍事拠点や主要都市,小規模砦は異民族の侵入経路や国境周辺地域に配置する意図があったと見ています。

    もう一人,コンスタンティヌス大帝は軍事的建築物コインを
    316-330年の間に15拠点で数多くのCampgateのブロンズコインを発行しています。
    ディオクレティアヌス帝の軍事改革をさらに進化させたと言われています。
    ディオクレティアヌス帝やコンスタンティヌス帝が
    ローマ帝国全土のローマ街道の安全や国境周辺地域の防衛をいかに推進させているか
    ということを知らしめる政策をプロパガンダコイン通じて
    ローマ帝国の市民に情報発信をしたことは、為政者としての資質がいかに高かったかを証明しています。
    ディオクレティアヌス帝は長期政権ではありませんでしたがローマ帝国の歴史上において自ら引退した皇帝として輝きを失うことはありません。
    コンスタンティヌス帝はキリスト教徒の歴史家に賛美される皇帝として現在も大帝と称される地位に君臨し続けています。

    ※細かく報告しますと少しだけ軍事的建築物コインを発行した皇帝は
    アクシミヌス・ダイア帝(cyzicus mintのみ),リキニウス帝。
    それ以外の参照は こちらへ